松本克のブログ

国立高校の甲子園出場に関する記事でこのブログに巡り会ったので、その辺りのことが中心になるかな・・・

【自伝】6)「Tシャツはいかがですかぁ~!?」

 私が総合商社のA商店に入社したのは、手元に残っている「辞令」によると、[1991]平成3年9月24日でした。


 そして、ちょうどその前後の状況を記した某『稟議書』なるものもたまたま手元に残っているので、見てみると:
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中国、台湾との三者合弁工場に関する経過:
1991年(平成3) 1月 合弁企業設立の本契約調印。
           8月 出資額US$1,200,000 の 30% US$360,000を払い込む。
           9月 合弁企業の登記完了。
          11月 品質不良、納期遅延、資金流用の疑い等が出てくる。
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 当時、A商店の貿易相手国は、主に米国、北欧、アジア(中国、香港、台湾)で、会社の規模は、全国に支店等の拠点が4~5箇所ほど、社員が百名、売上が百億円くらいだったのではないでしょうか。


 入社当時の私は40歳ちょっと前というところでしたが、上記のように合弁事業の立ち上がりの時期でしたから、当然、「合弁及び貿易業務の中国語要員」としての役割が期待されているものとばかり思っていました。


 というのも、当時の海外部の部長という人は中途入社で入って来た人だとのことで、それまで社内には中国語を使う人が居ず、全て英語と日本語だけでやって来たとのこと。
 ん? しかし、今振り返ってみて、当時、海外部という所には部長のほかに誰か社員は居たのだろうか? どんな人が居たかな? どうも記憶に無い。
 2つの支店が中国製Tシャツ、トレーナー等廉価のメリヤス商品の販売にほぼ傾注していた当時でさえ、とにかく、中国語がわかるのは海外部の部長一人だけでした。
 もう少し正確に言うと、部長と、よく一緒に出張し商談の現場で聞きかじっていた営業マン一人の中国語と、合わせてもせいぜい1.1人しか居なかったのです。


 しかし、私が配属されたのは東京支店でした。
 珍しいことに、我が社は本社が横浜、東京は営業部隊としての支店で、前述したように、当時、東京支店は中国製のメリヤス商品の販売に傾注していました。
 では、中国語を活かす機会が全然無かったかと言えば、そうでもなく、有り難いことに、中国製の工芸品を扱っている部隊が時々中国語の仕事を回してくれました。


 通常、工芸品部門の年間の営業は、毎年二回春と秋の広州交易会にお客さんを連れて買い付けに出掛け、その後の半年で契約分を輸入し売上を計上するといったパターンが出来上がっていたので、必ずしも中国語でなければならないといった仕事は特には無かったと思うのですが…


 というわけで、入社して早々に期待されたことは「Tシャツの販売」でした。
(つづく)