松本克のブログ

国立高校の甲子園出場に関する記事でこのブログに巡り会ったので、その辺りのことが中心になるかな・・・

全国高校野球百周年記念大会へ台湾代表の参加を実現しよう!

 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成29年(2017) 10月31日(火) 通巻第5496号
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 読者の声 どくしゃのこえ READERS‘OPINIONS 読者之声
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(読者の声4)【呼びかけ】

全国高校野球百周年記念大会へ台湾代表の参加を実現しよう!

  2018年8月、全国高校野球は百周年の記念大会を迎える。
  全国高校野球連盟(高野連)の関係者によれば、この記念大会は過去百年間に出場したすべての学校関係者に祝福されて成功させねばならないと希望しているそうである。ここに言うすべての出場校には戦前の台湾をはじめ満州、朝鮮からの代表校も含まれる。その中でも台湾代表が活躍した華々しいページはいまも我々の記憶に新しく、数年前に制作され上映された映画「KANO」の衝撃もあって、甲子園の歴史を語るとき台湾代表の部分を避けて通ることは不可能である。その責任ある高野連は、来る百年記念大会に台湾代表の招致を決して忘れてはならないのである。もし台湾代表の参加が実現しない場合、光輝ある甲子園大会の歴史に大きな欠陥と汚点を残す結果を招くからである。


 上記の理由にてわれわれ有志は、昨年来高野連をはじめ戦前台湾代表と強いきずなを築いてきた松山商業、中京商業、札幌商業など名門校に対して台湾代表の参加を実現すべく尽力されるよう呼びかけを続けてきた。その結果、本日まで台湾と交流の深いいくつかの地方自治体や在日台湾人、台湾野球関係者から力強いご支持を賜っている。


  ただ、責任ある高野連は台湾代表招請を未だ実感として把握していない。台湾と日本の試合をあくまで国際試合と心得ているからであろうか。満州は滅び、朝鮮半島は混乱が絶えない中、台湾こそは戦前から培った日本の野球精神と技術の向上に励み、日本のいかなる高校と比較しても遜色なく、甲子園出場に十分すぎる条件を整えている。


  台湾と日本は自由と民主主義を共有する極東の要に位置し、戦後一貫して政治、経済、文化を共有する立場に変わりなかった。これらの親密な関係が将来長きにわたって維持向上されるには、旧世代が苦心して育てた絆の上に両国の青少年が確固たる友情と信頼関係を築いてゆけるような環境を整えることが重要である。それこそまさにスポーツ・文化の交流を促進することに外ならない。


  台湾の高校代表が甲子園百年記念大会に日本国内からの各代表と同じ条件で分け隔てなく参加することは、単なる野球ゲームを超えて両国が共同体を築く上できわめて意義あることと考えねばならない。


  ここに両国の野球関係者をはじめ台湾各地との姉妹都市関係者、心ある有志が一体となって明年に迫った記念大会にはぜひ台湾代表の参加が実現するよう高野連に働きかけようではないか。


  (「甲子園百周年大会に台湾代表参加を実現する会」 札幌市 海原創)

国立野球に魅せられ有吉佐和子さんはボールを12㌤贈った…

 [1980]昭和55年8月9日(土)付スポーツニッポン紙は「国立0対5箕島」の試合の記事の中であるエピソードを報じていた:
「魂の国立野球に魅せられた人は数知れない。作家の有吉佐和子さんはボールを12㌤贈った…」


 今さらではあるが、国立高校と有吉佐和子さんとの繋がりについては聞いたことが無かった。
 国高野球部を応援してくれていることで有名なのは、山口瞳さん、滝田ゆうさんらであるが、有吉さんについては、先輩たちに聞いてもわからない。


「はて・・・」と思っても、もう30年以上も前に亡くなっている方である。
 今のようにブログで私生活の一部が漏れ聞こえてくることなど無かった時代のことだ。
「もし、身内の人とか、秘書のような人がいたら、どこからか話が出て来ないでもないかも…」ということで探してみたら、これが大変なビンゴー!


 娘の有吉玉青(たまお)さんという人がやはり血を継いでいてエッセイ等を書いていた。
 母親の佐和子さんが急逝した1984年、玉青さんは20歳で在英留学中だったが、その後も、以前にも増す祖母の愛情に育まれ、1989年に早くも書き下ろしの『身がわり ~母・有吉佐和子との日日~』を刊行、正にそこに国高野球部の話も出ていたのである・・・

1980年8月7日 応援団、いざ甲子園へ…

生徒たちのバス:


●昭和55年8月2日(土)、小林常司教諭から生徒応援団のバスは近畿ツーリストの斡旋で約20台を頼み800名を見込むという報告を受ける。(これは見事に予想が当り、762名になった。)
[『甲子園への道』p.11 岡田忠久(教頭)「国高の熱い一日」]


●8月7日木曜日の夜10時、国立高校が移動を開始した。生徒は1クラス平均約30名(最大42名、最小17名)、引率教員は30名の総計800名つまり国立高校の約三分の二がバス19台を配して参加したのだから、国立高校が移動したと言っても過言ではないだろう。(※1組45名x9組x3学年で全校生徒約1,200名の見当)
[『甲子園への道』p.15 永井相一(教諭)「大移動」]


●もたもたしているうちに学校のバスの申込みに遅れた。何度頼んでも冷たく断られた。一旦諦めたがこんな事は二度とないから根性で新幹線で個人的に行く事にした。
 甲子園特別切符を買い二人で新幹線に乗り込んだのは夕方だった。窓の景色は暗くて全く見えず四時間ぶっ続けで喋った。今思うとこの時に寝ておけば良かったと思う。大阪で阪神電鉄の最終列車に乗り換えた。~
 甲子園に着いたのは午前0時を過ぎていたがかなりの人が並んでいたので驚いた。~
 私達は徹夜した甲斐あって内野席の前の方で入場式を見られた。眩しい位に晴れ上っていたが私達は半分眠っていた。
[『甲子園への道』p.14 泰楽由香利・和南城受理(二年生)「女生徒二人、甲子園へ」]


卒業生のバス:


●8月7日の夜国立、明日、8日の甲子園へ向って町の中が7時頃より異様な雰囲気に変化して行く。大学通りの左右に次々と並び始めるバスの数、おそらく国立市始って以来の光景だろう。学校・PTA・同窓会・地元商店会等、どのバスが何で何がどのバスか暗い通りをあちこちで声が飛び交う。すれ違う同期生そして先輩後輩同士が声をはずませて挨拶を交わし合う。そして11時喜びと期待とチョッピリ不安を乗せて、はやる気持を押さえる様にバスはゆっくりと甲子園へ向って出発した。
[『甲子園への道』p.15 星野孝次郎(25年卒野球部)「甲子園への道八月七日の夜」]


●私が乗ったのも、きっと前文の星野孝次郎さんと同じグループだったのでしょう。旅行社の案内を見ると、このグループは全部で22台のバスが6ヶ所から出発していて、そのうち「国立一橋大学前」からの出発が11台、さて私は何号車だったのだろう? そこまでは記録しておかなかったが、私はかみさんと二人、野球部同期のY君は確か妹さんと一緒、大学通りの暗闇の中をどこからこんなに人が湧き出て来るのかと思わせるような人混みの中で出会ったのである…