松本克のブログ

国立高校の甲子園出場に関する記事でこのブログに巡り会ったので、その辺りのことが中心になるかな・・・

【自伝】9)30%の払込みだけで即尻尾を出してくれたのが勿怪の幸い?

 さて、中国側の代表「中国の松下幸之助」のことは王松下(仮名)と呼ぶことにしましょう。
 中国人社会で一歩でも二歩でも人より抜きん出ているということは、典型的な「口八丁手八丁」男と言えましょうが、どこまで実力の裏付けが有るかが問題です。
「手八丁」が本物であるならば、今後も取引を続ける相手として不足は無いでしょうが、「口八丁」だけが本物の場合、それは単なるほら吹きですから、相手になりません。
【自伝】6)の『稟議書』にあった通り、1991年9月の「合弁企業の登記完了」までは、ちゃんと「できる男」を演じていたことがわかります。
 しかし、私が入社した9月24日にはもう本性を現わしていたかもしれません。
 11月には「品質不良、納期遅延、資金流用の疑い等が出てくる」となっていますから。


 A商店に来るまでに私が経験していた開放前の中国の貿易形態は、品目別に全国組織の国営企業が有り、生産や販売、輸出入の実務は各省の下部組織がそれぞれ自分の省に関する仕事をする、という体制でした。
 例えば、工芸品であれば、“工芸品進出口(=輸出入)公司(=会社)” という国営の会社組織が有り、“総公司(=本社。在北京)” の下に “北京市分公司(=支社)” とか “河北省分公司(=支社)” 等が有り、それぞれ北京市内の、あるいは、河北省内の工場や製品を管理し、輸出入を行なうという形です。
 トラブル処理も当然公司内で行なうことになりますから、公司内の情報は基本的に共有されていて、工場間に品質の優劣等が有った場合、その原因や程度、等級分け等も共有されていたはずです。


 このような仕組みであれば、どこかの工場に天才的な技術者が現われた、というようなことはすぐに公司内で共有されることになりますが、私がA商店に入社した頃は、すでに改革開放の時代を迎え、官民いずれも旧来の仕組みにこだわること無く、各自の工夫で取引を発展させて良い時代となっていました。


 極端に言えば、「国の制度に縛られず、儲けるためには何をしても良い」時代になったということであり、逆に言うと、「どんな新手を使われるかわからない」から、リスクを避ける方法も自分で考えろ、ということです。


 当時、A商店がメリヤス製品の輸入に関して取引相手としていたのは北京の「中新公司」という輸出商社でした。この商社は、本来、金融関係の企業グループの一員ですので、繊維品については素人です。
 A商店と生産者の仲を取り持ち、両社の合意した契約に従い輸出側当事者として名前を貸し、輸出業務と決済業務を代行するだけです。
 つまり、繊維製品に関する限り、品質等の契約内容の詳細は全てA商店の責任で行なわれており、品質等のトラブルが発生しても、中新公司が責任を問われることはないという方式です。


『輝ける郷鎮企業の雄・王松下』とA商店とは、通常のお得意さんと同様、製品の輸出入取引から始まり、一定の往来の後、合弁企業の設立へととんとん拍子に話が進んだようです。
 大川部長と王松下の蜜月時代です。


 初めからの予定なのか、途中から話が広がったのか、第三の当事者に台湾方出資者が居ました。大川部長の友人で、お金が有って時間も有るという優雅そうな身分の人でした。
 大川部長に「北京にちょっと面白い男を見つけたんだ。小遣い銭稼ぎに投資してみないかい?」とでも誘われたのではないでしょうか?
 その後、事業がぎくしゃくし始めた時、王松下のお目付け役として台湾から承徳に駆け付け工場内に駐在するようになったので、時間に余裕の有る人だということがわかったわけです。
 人質のような扱いを受けはしないかと心有る関係者は心配しましたが、大川部長は、ある頃から、この人の行動を称して「蝙蝠のような男」とし、あたかも裏切り者に対するかのように批判を続けるようになりました。私には生贄を作ったように見えたのですが。


 一度躓いた事業は、坂を転げ落ちるように悪化する一方で、関係者間での解決が不可能と判断したA商店は、1992年5月、北京の国際仲裁庭に提訴しました。
 前述の『稟議書』の最後の記載は:
「1996年(平成8)11月 北京市東方弁護士事務所より、清算が終了した旨の報告書が来る。」
となっています。
 海外部の用語で「清算が終了した」というのはどういう状況を言っているのかわかりませんが、相手は中国ですから、大川部長といえども出資金を取り返せるはずは有りません…


 そして、私は1999年3月31日にA商店を辞めました。在職7年6ヶ月のうちの5年2ヶ月が合弁事業と重なっており、東京支店営業部在籍のまま合弁や仲裁庭に係わる文書の翻訳もずっと行なっていました。
 残念ながら、通常の輸出入の商談をする機会は二度と来ませんでしたが。


(A商店の今次の連載 完)